ただ愛のため

 

 皆さんは 「洗礼」 って聞いたことがありますか?そう、クリスチャンになる時に頭 (教会によっては全身) に水を注ぐ儀式のことです。世間でも 「プロの洗礼を受ける」 なんて言いますが、本来の意味は 「洗礼によって罪にまみれた古い自分を洗い流してもらい、神様に従って新しく生き直すしるし」 とも言えます。ですから洗礼の時には神様の前で罪を告白する悔い改めが必要となります。二千年前のイエス様の時代にも既に洗礼はありましたが、当時の洗礼は異教徒がユダヤ教に入信する場合に必要な悔い改めの洗礼でした。ユダヤ人は神様に選ばれた民族だから洗礼を受ける必要はないと考えていたのです。

 

 しかしこの悔い改めの洗礼を受けるため神の子であるイエス様が洗礼者ヨハネのもとに来たのです。当然、イエス様が救い主であると知っていたヨハネはそれを思いとどまらせようとしましたが、イエス様はヨハネから洗礼を受けました。なぜでしょう?どうして罪なき神の子が悔い改めの洗礼を受けられたのでしょうか。このことに首を傾げる人もいるかもしれません。だってこれではイエス様にも悔い改めるべき罪があり、それを洗い流してもらわなければならないことになりますから。その上で、私は敢えて反論します。それではいけないのでしょうか?

 そもそもイエス様は苦しんでいる人を助けるため、自分が罪人の汚名を着せられることも受容された方です。聖書には、イエス様がある安息日に会堂の中で片手の不自由な人に出会い、その人を癒されたという話があります。当時のユダヤ社会には厳しい法があって、 「安息日」 には絶対にしてはいけないと禁じられていた行為が無数にあり、医療行為もその一つでした。意図的にそれに違反した者は、死刑になる場合もありました。しかしイエス様は苦しんでいる人をそのまま放置されることなく、その人の手を癒しました。その現場を宗教的指導者たちが見て、意図的に法を破ったイエスは法の規定通りに裁かれなければならない、と断定したのです。

 

  30年程の短い生涯の間、イエス様はただひたすら人を愛し、苦しんでいる人々に救いの手を差し伸べ、その愛のために自分が罪人として裁かれる運命も敢えて引き受けられました。
そしてついに兵士たちに凶悪犯のように捕らえられ、被告として宗教裁判にかけられ、
神を冒涜した罪で死刑を宣告され、最後は二人の死刑囚と一緒に十字架上で処刑されてしまいました。これが、イエスというお方の一生です。

 

 ある神父は 「悔い改め」 を意味する聖書の原語 「メタノイア」 を 「低み (下) からの見直し」 と訳しました。その原意は 「相手の立場で痛み、苦しみを共感・共有する」 ことです。つまり 「メタノイア」 は、人の痛み、苦しみ、孤独、怒りに共感・共有できる所に自分の視点を移すことです。だとすればイエス様が悔い改めの洗礼を受けた理由が分かります。この世で最も低い場所を象徴する馬小屋で生まれ、いつも罪人と一緒に歩まれ、ご自分も犯罪人して罪人と一緒に十字架に付けられたイエス様は間違いなく神の子であり、すべての人々の理解者と言えます。

 

 英語の 「understand」 (理解する) も 「下に立つ」 ですが、私たちは子どもにとって良い理解者になっているでしょうか?子どもたちの目線、子どもたちの下に立つのは至難の業です。
イエス様が悔い改めの洗礼を受けられたのは私たちの理解者となるため、ただ愛のためです。ところで 「メタノイア」 を反対から読むと 「愛のため!」 は偶然でしょうかね?

 

                                                                                      〔 牧師 真壁 巌 〕

 

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                                       2013年 1月15日 雪の朝