ぶどう園の労働者

 

  あれほど言われていた 「いじめ」 についてテレビや新聞で取り上げなくなりました。
 いじめは、人格形成が不十分な人の人間関係において、強い立場にある者が目下とか弱い立場にある者を肉体的または精神的に痛めつけるときに起こる問題で、見方によっては強い立場にある者も自分の弱さの裏返しでいじめているといえます。そこには、人が人であることをどう経験し、成長するか育ち方の問題があります。


 人が人として向き合うことを重視しないで、知育のみで育てた結果、強い者と弱い者が生じて、そのひずみの一つとして、現代の 「いじめ」 があるように思います。人の能力には違いがありますが、その時代・社会の求めるものによって人のランク付けがなされています。
 自分の置かれている社会を考えるとき、その社会が何を基本として成り立っているか、人を基本としないとき人は社会のための道具となり、人にとって不幸なことになります。


  現代社会は国内の経済問題にしても、国際的な民族間・国家間の問題にしても、急激に強い者と弱い者の社会になりつつあるように思います。
 「自分たちにとって不利益にならない限り」 ということが、国として判断をするときの基準となっています。個人的には互いに不利益を負い合いながら成り立っているのが社会なのですが。


 「『ぶどう園の労働者』 のたとえ」 という話が、マタイによる福音書20章にあります。
 このたとえは天国のたとえで、神さまは、このようにお考えになるとイエスさまが話されました。


 ある人が大きなぶどう園をもっていて、収穫のために町に出て行って、朝6時に労働者を一日一デナリオン (当時の労働者の一日の賃金) の約束をして雇いました。9時に行ってみるとまだ人がいたので、ふさわしい賃金を払う約束をして雇い、12時、3時に同じようにして雇い、夕方5時に行ってみるとまだ立っている人がいたので、その人も雇い、夕方仕事が終わって賃金を払うとき、最後に来た者から始めて最初に来た者まで順に、それぞれ一デナリオンの賃金を払いました。朝早くから働いた者はもっと多くもらえるかと思ったのですが、同じ一デナリオンであったのに腹を立てて、一時間しか働かなかった者と一日辛抱して働いた者を同じ扱いにすると、主人に不平を述べたのです。しかし、主人は 「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」 と言ったというたとえ話です。


 賃金の支払いが何故、最後の者からなのか。最初の者に不平を言わせて、たとえを聞く者に神さまの考えを示すためですが、話としては分かっても、何故という思いが聞く者の心に残る話です。
 このような現代社会ですから、なおのことこのようなたとえが語ることに心の耳を傾けたいと思います。

〔 理事長 長山 恒夫 〕 

 

 

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