一匹の羊

 

  子どもたちは、幼稚園でたくさんの聖書の話を聞きます。 「九十九匹の羊と一匹の羊」  のたとえ 〈マタイによる福音書18章10〜14節 (新約聖書35頁 「迷い出た羊の話」 ) 〉 は、その中の代表的な話です。百匹の羊の一匹が迷子になり、羊飼いが捜しに行き、見つけると、その一匹のことを喜ぶという話です。

 「ちいさいひつじが」 という讃美歌もあります。4番は 「とうとうやさしい ひつじかいは、まいごのひつじを  みつけました。だかれてかえる  このひつじは、よろこばしさに  おどりました。」 という歌詞です。


 これを描いた絵もあります。わたしは、羊飼いがうれしそうに羊を肩車して帰る絵が好きです。
 九十九匹を残しておいて、一匹の羊を捜しに行く、大切にするというのは、聖書が語る心であり、神の心です。

 

  九十九匹を野に残しておいて大丈夫なのだろうか、一匹に比べたら九十九匹の方が大切ではないか、と考える人もいるでしょうが、イエスは、そういうことは置いておいて、一匹を捜しに行くというのです。
 これはたとえですから、羊のことよりも人のことをいっています。イエスは一人の人を大切にすると言っています。
 「迷子になった」 、「いなくなった」 ということを、聖書は人間関係において、病気や障害や教えを破ったりしたために罪人として差別されている人について言っています。人々は、一緒になって差別しなかったイエスに対して、「罪人の友」 と非難しています。

 

  子どもたちは、聖書の話を聞き、また、たくさんの友だちとの出会いの中で、ある時は 「一匹の羊」 になり、ある時は 「九十九匹の羊」 になり、そしてある時は 「羊飼い」 の経験をして、一人の人を大切にすることを自分のものにしていきます。
 普通は、そういうことを民主主義のルールとして学びますが、聖書では、自分のことを友だちのことを、聖書の教えを聞くことの中で考え、自分が神の前に立つことによって知ることになります。誰もが神に造られ愛されている一人一人であることを知ることによって自分のものとします。

 

  コリントの信徒への手紙T 12章12〜31節 (新約聖書316頁 「一つの体、多くの部分」 ) に 「目が手に向かって 『お前は要らない』 とは言えず、また、頭が足に向かって 『お前たちは要らない』 とも言えません 」 という言葉があります。
 元来、人は自分中心なものですが、たくさんの友だちとの生活の中で、神の前に立つ自分を自覚することに始まって、お互いの大切さを知り、皆が一つである世界を造っていく一人一人になってほしいと思います。

 〔 理事長 長山 恒夫 〕 

 

 

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