夏が終わって秋になり自然の豊かさの中で、思わされることは健康ということです。 身体の健康、精神の健康、さらに人間は社会的な存在ですから様々な人間関係が健康であること、それらが別々ではなく、ひとつの人間存在として健康であることが必要です。

  ことしの夏の猛暑に象徴されるように、現代社会には、何か変だと思わされることがたくさんあります。個人の身体や精神だけでなく、社会が健康であることを国際的な活動の中で世界が協力して努力をしていかなければならない、そういう時代を迎えています。  次の時代を生きる子どもたちにとって、社会の健康は切実な課題です。


 聖書のイエス・キリストの福音は、人間として健康であるとはどういうことであるのかと、角度をかえて読むことができます。
 イエスの活動を一言でまとめて言っている聖書の箇所があります。「イエスは〜諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」つまり、“教えといやし”です。

  聖書には、イエスがたくさんの病気や患いをいやされたことが書かれています。しかし、わたしたちは、それを奇跡物語として読み過ごしてしまうところがあります。
 いやしは、イエスが人にどのように出会われたかという大切なことを伝えており、わたしたちが従うべき道がそこにあります。
 いやしの箇所を読んで、不思議に思っていたことがありました。それは、いやしていただくためにイエスのところに来た盲人に「何をしてほしいのか」とイエスが聞かれ、「見えるようになりたいのです」と答えていることです。見えるようになりたいに決まっているのに、何故わざわざ「何をしてほしいのか」と聞いているのだろうか。


 この聖書の記事は目の見える人に向かって語られていて、盲人のいやしは、イエスさまだから出来たので、わたしたちには出来ない奇跡物語だという理解が根底にあります。目の見えない人が、この奇跡を信じたからといって、見えるようになるわけではありません。
 そこで「何をしてほしいのか」、「見えるようになりたいのです」、「見えるようになり〜」が、その人にとってどのような意味を持ち、イエス・キリストとの出会いとなったかが、大切な意味を持つことになります。
 他のいやしの場合にも、同じことが言えます。自分は健康だと思っている人にとって、健康とは自分のようになることだと考えられているならば、自分をむなしくして人の心に聞いてみることの大切さを思います。

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  人間は、言葉の存在です。言葉は話し手の心から聞き手の心に届いてはじめて言葉としての意味をなします。  聞くことによる出会いを求めて、子どもたち、友人たちとの健康な関係を与えられたいと願います。

                                                                            〔 理事長 長山 恒夫 〕   

武蔵野相愛幼稚園

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