11月16日、教会学校生徒のお母さんが三鷹市内で交通事故に遭い、意識不明の重体となりました。翌日、相愛幼稚園で聖書の会をしている時、その連絡を受け、とても驚きました。もちろん、その日から一生懸命祈りました。相愛幼稚園の先生方もお祈りくださったようです。けれども、20日の午後、お母様は意識を回復することなくそのまま亡くなりました。まだ42歳で、幼い三人のお嬢さんたち Yちゃん(小6)、Mちゃん(小3)、Sちゃん(三鷹小鳩幼稚園年長組)とそのお父さんを残して天国に行ってしまったのです。
ご家族の希望でお葬式を相愛教会でしました。お母さんが事故に遭う前日、子どもたちと一緒に幼児祝福を受けた礼拝堂が、一週間後にはお母さんの葬儀の場所となりました。私は葬儀の司式をしながら、「神様、どうしてですか? なんで今なんですか?」と問わずにはいられませんでしたし、お父さんと三人の子どもたちの深い悲しみの姿に涙しながら、一生懸命慰めの言葉を語りました。
この時、「どうして?」から連想させられた幼児さんびかがありました。
「クリスマスだから考える」
クリスマスだから考える
たくさんたくさんたくさん
悲しんでいる人のこと
それからすこうし考える
どうしてどうしてどうして
悲しいことがあるのかな
クリスマスだから考える
悲しんでいる人のこと
皆さんはこの歌詞の「だから」の意味が分かりますか? 私はこんなふうに理解しました。悲しみは人を絶望させ、暗闇に突き落とします。だからクリスマスは夜の出来事だったと。宿屋に泊れず、馬小屋に滞在しなければならなかったマリアとヨセフ、また野宿しながら夜通し羊の群れの番をしなければならなかった羊飼いたち、そして星を頼りに旅をして救い主のいる所に辿り着いた博士たちも、みんな夜の登場人物です。たまたま夜だったということでしょうか? いいえ、そうではありません。目を覆いたくなるようなむごい世界に、暗闇を照らす光として神の御子がお生まれくださった、しかも一番暗く冷たい場所にです。だからひどい現実に見えても決して神様から見捨てられた世界ではないということなのです。
確かにこの世には説明できないむごいことがあります。それでも神の愛に包まれている世界です。悲しみと冷たい暗闇の中でこそ光は輝きます。クリスマスはこの光、神の愛を確かめる時です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書3章16節)
〔 相愛教会牧師 真壁 巌 〕