「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」 〔ヨハネの手紙 一 4章7節〕
昭和10年12月14日、武蔵野相愛幼稚園の創設者である白石多幸・トク両先生(黒田成子理事長の両親)は、幼稚園敷地と定まった吉祥寺二二九二番地の草茫々の中で、聖書(第一ヨハネ4章7節「相愛の精神」)を読み、代わる代わる祈りました。
昭和11年4月1日、武蔵野相愛幼稚園は開園し、30名の子どもたちが入園しました。 園長は白石多幸、星組(年長)は主任保母白石トク、花組(年少)は白石成子(現・黒田成子)が受け持ちました。武蔵野相愛幼稚園は、一家で始めた小さな幼稚園だったのです。
順調なスタートをきった幼稚園はその後、園児数も増加しますが、時代が軍国主義化する中で、キリスト教信仰に基づいた保育に対する摩擦は大きくなっていきました。昭和16年の開戦後も保育は継続されましたが、戦争も末期になると、園庭に防空壕が掘られ、たび重なる空襲に子どもたちは騒ぐし、一斉に行動することが難しくなってきました。そこで、トク主任は多幸園長と相談の上、昭和19年11月19日、閉園に踏み切りました。
その日のことをトク主任は、
「大切な幼児の尊い生命を思うと事故のないうちに閉園した方がよいということに決心がついたので、すぐモンペのまま防空頭巾を被って、五日市街道を走るようにして市役所にかけつけ、口頭で閉園を申し出た。」と日記に記しています。
終戦を迎えると、園庭の防空壕は畑に変わり、保育室は焼け出された人々の仮の住居となりました。昭和21年11月に都庁より再開の許可があり、昭和22年1月には、借り物のオルガン、市販のブランコ、手製の人形で居宅を開放して3月までの保育を行いました。そうして、14名の子どもたちがこの短い保育を受けて修了式を行いました。 幼稚園の正式な再開は昭和23年4月8日。この日、85名の子どもたちが入園し、7名の教職員と共に新年度が始まりました。
昭和30年度から33年度までの4年間、給食を実施していた時代もありました。
昭和39年度から「遊びを中心とした保育」が始まりました。現在行われている相愛幼稚園の保育方法の出発点ともいえる時です。
昭和54年10月、思い出の多い木造の旧園舎に代わって、鉄筋コンクリートの現在の園舎が出来上がりました。今年で27年になります。
武蔵野市には14の私立幼稚園がありますが、武蔵野相愛幼稚園は市内で最も歴史の長い幼稚園になりました。 70年間の神様の守りと祝福に感謝すると共に、これからも“相愛の精神”のもと、明るくて、楽しくて、温かい幼稚園でありたいと願っています。
〔 園長 佐川 曜子 〕