二月に入り、花屋さんの店頭にはパンジーの鉢植えがたくさん並んでいます。十月頃から春のことを思って植えても、寒さに向かって、だんだん花数が少なくなって、買いたしたくなる頃です。花芽が出るように、終わった花を摘んでも、元気が出るように水肥をあげても、あまり変化はありません。それでも、よく説明をしてあげると、花を可愛がってあげる子どもがいます。ほかの子の投げたまりが花に当たって、葉が折れたりしても、追いかけっこをしている子が、思わず踏んでしまっても、黙って世話をしています。春に向かっての草の命を感じ取っているのでしょう。

 お祭りで買ってきた金魚を数匹、子どもが持ってきたことがありました。水槽を用意して飼いました。元気に何年も生きました。そのうち、寿命がきたのでしょうか、一匹二匹と死んでいき、一匹だけになりました。その一匹は、そのあとも元気で、最初、五センチくらいだった金魚が十五センチほどになりました。ある日、突然に、白くなり始め、全体が白くなってしまいました。とうとう、死んでしまうのかと話していましたが、死ぬこともなく、白い金魚として、元気に生きて、もう二年ほどになります。子どもたちは、時々、金魚に関心を向けますが、なかに「世話をしたい」と言ってくる子どもがいます。餌はやりすぎてはいけないこと、水はときどき汲み置きの水で取り替えてあげることなど、説明をしてあげると、忘れないで、世話をしています。金魚がその子の中に育ててくれていることを思い、子どもにも金魚にも「ありがとう」という気持ちがします。生きものの世話をすることは、子どもにかけがえのないものを与えてくれるからです。

 幼い子どもにとって命を感じる体験は、ぜひ、させたいことです。彼ら自身も、命を与えられ、やがて、それを失うものだからです。聖書に「主は与え、主はとりたもう。主の御名はほむべきかな。」という言葉があります。命と死を自分のものとして受け止めることが出来たときに、人は、神の前に自分を知り、神の前に立つことができるからです。

 命は死と表裏をなしていますから、死を経験することに命のもうひとつの面を経験することになります。あるお母さんが「うちの子は、毎日、虫をいっぱい捕まえてきて遊んでいます」と言っておられました。その子は、何匹も何匹も虫を殺していることでしょう。そして、生きているものは必ず死ぬことを、毎日繰り返して自分に刷り込んでいることになります。その子は、本当に毎日が楽しくて仕方がないというように遊んでいます。虫の死だけではなく、子どもが何かの死に向かい合う体験をしたとき、目をつむるのではなく、受け止めるように、一緒に体験したいと思います。

 自然の中にあるならば、命と死は、日常的なことです。人の存在の根本を見失わないように、特に、大切な幼児期において、しっかりと自分のものとするようなすごしかたをしたいと思います。

〔 理事長 長山 恒夫 〕

武蔵野相愛幼稚園

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