心に納めて

 「なぜ、うちの子はこんなことをするのか」——。子育ての中で、親が我が子の言動に戸惑い、理解に苦しむ瞬間は少なくありません。実は、救い主であるイエス様の母マリアもまた、同じような葛藤を経験していました。聖書には、イエス様の子ども時代のエピソードがわずか一つだけ残されています。それはイエス様が両親と共に巡礼の旅に出た際、帰り道で両親とはぐれてしまった時の出来事です。
 三日間必死に捜し、ようやく見つけたイエス様は、神殿で学者と議論をしていました。母マリアは「なぜこんなことを。心配したのですよ」と切実に問いますが、イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答え、親の心に追い打ちをかけました。
 この時、両親はイエス様が言った言葉の意味が全く理解できなかったと聖書は記しています。親を心配させたことへの謝罪ではなく、自分は「天の父(神様)」の家にいるのだという宣言。親としての情愛や常識をはるかに超えたイエス様の姿に、両親は立ち尽くすほかありませんでした。
 
ここで注目すべきは、母マリアの振る舞いです。彼女は、理解できないイエス様の言葉を拒絶したり、無理に分かろうとして自分を納得させたりはしませんでした。聖書には、マリアが「これらの出来事をすべて心に納めた」と記されています。この「納める」という言葉には、単に記憶にとどめるだけでなく、大切なものとして持ち続け、何度も心の中で反芻し、温め続けるという意味が含まれています。たとえ今はその真意が分からなくても、将来いつかその意味が開かれる時が来ることを信じ、心の引き出しにそっと仕舞っておく。マリアは分からないまま、その不可解な我が子の姿を丸ごと受け入れたのです。
 
イエス様が語られた「父の家」とは、やがて十字架と復活を通して人類を救うという神様の大きな計画へと繋がっていました。それは当時の両親の想像をはるかに絶するものでしたが、神様の救いの御業は、人間の理解や予想を超えたところで着実に進んでいたのです。
 
私たちの子育てや日常も同様です。子どもの言動、あるいは人生で起こる出来事が、すぐには意味をなさないことがあります。私たちはすぐに目に見える結果や成果を求めがちですが、物事は思い通りには進みません。しかし、マリアがしたように、分からないことを「分からないまま大切に持ち続ける」ことが、時には必要なのではないでしょうか。
 
私たちの内側では、既に神様によって備えられた何かが静かに育っています。自分の小さな物差しで判断できないことに出会ったときこそ、私たちの思いを超えた大きな喜びの御業がそこにあるのだと信頼したいものです。
 
日々の何気ない一コマ、驚きや戸惑いの瞬間を、心の引き出しに大切に納めてみてください。時折それを思い起こし、反芻しながら歩むとき、私たちは目に見えないけれども共にいてくださるイエス様の存在を、より身近に感じることができるはずです。
                            〔 
相愛教会牧師 長尾 ハンナ 〕

 

         「 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」
                     ( ヨハネによる福音書15章12節 

武蔵野相愛幼稚園

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