バベルの塔

 聖書の中にはキリスト教にあまり触れたことがない方でも聞いたことのある話があって「バベルの塔」もその一つです。16世紀の画家ブリューゲルの絵画は有名です。この絵の元になった話は、旧約聖書の創世記11章に伝えられています。神様がこの世界をつくられた後、命を与えられた人間たちは町をつくるようになります。「れんがを作り、それをよく焼こう」、石の代わりにれんがを、漆喰の代わりにアスファルトを使おう。人間の探求心が、より丈夫で固いものを見つけ、発明していくワンシーンです。幼稚園のこどもたちが、園庭で高精度の泥だんごや土の料理やお菓子をつくるのと何だか似ています。
 すると誰かが思いつきます。「そうだ、天まで届く塔を建てよう」。そんなすごい町に住もう。その思いは、間違っていません。けれども天まで届く塔を建てることで、天におられる神様を忘れること。それは聖書が「間違っているよ」とハッキリ述べることなのです。神様を無視して、有名になり力を誇る。それは神様の注がれている愛を無視するということです。愛を無視して、有名になり成長し大きくなっても、それは後に大きな問題を引き起こすのではないか? と聖書はこの古い物語をとおして伝えてきました。
 人間たちが天まで届くことを願ってつくられたバベルの塔は、神様の手によって建造中止になりました。聖書はその時、神様が人間たちの言葉を乱され、意思疎通ができず協力できないようにさせたと告げています。愛を忘れた結果、自分たちの首を絞めるようなことを食い止めてくださったということです。
 バベルの塔の物語は言葉の大切さを伝える話です。言葉には力があります。私たち人間の言葉もそうです。小さい頃、家族や先生、ともだちにかけられた優しい言葉、愛の込められた言葉は、ずっと支えとなるでしょう。バベルの塔をつくろうとした人たちは、自分たちの持っている目に見える力、技術しか見えませんでした。それは遅かれ早かれ、目には見えない愛や優しさを無視することへとつながっていくと。神様は分かっていたのです。力を誇る者は、すぐには分かり難い愛や優しさに目を向けることが難しくなります。その物差しでしか考えられなくなるかもしれない。
 聖書の言葉には神様の愛が満ち溢れています。バベルの塔の話も人間の努力を神様が邪魔しているようにも受け止められがちですが、その道を進み続けると、取り返しのつかないことになるよ。そうブレーキをかけてくださったのです。子どもたちは幼稚園で祈ることを覚えます。祈りも、一つのブレーキです。立ち止まって考えてみる。それは本当に神様が喜ぶことかな? ともだちも笑顔になることかな? 静かになって、考えてみる。神様の声に耳を傾けてみる。すると、新しい発見があるかもしれません。また、悲しい気持ちでいる時には神様の愛に気付いて、みんなの優しさが分かって、元気になることもあります。ともだちの優しい言葉、先生方が傍にいてくれたこと。神様は私を愛しているんだ。これらは全て、自分の力で手に入れたものではありません。与えられたものです。聖書の言葉で恵みと言います。今日も子どもたちには溢れるほどの恵みが与えられています。 

                            〔 相愛教会牧師 長尾 大輔 〕

                  「 主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。 」
                                  〔 詩編5篇4節 〕

武蔵野相愛幼稚園

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