つくる

 

 幼稚園で子どもたちを見ていると、誰もが何かを作っています。材料を用意しておくと、それでつくる子もいますが、用意されていないと、そこにあるもの、何でも使って作ります。それは、わたしが子どもの頃にも、そうであったことを思い出します。
 幼児期の子どもにとって、何かを「つくる」ことは、人間形成の上で、特別に意味のあることのように思います。この世に生まれたものにとっての、始まりの業と言ってもよいでしょう。
 聖書でも、初めのページである創世記の1−2章に、「初めに、神は天地を創造された」とあり、神は、はじめに天と地とを創造されました。その天地創造の中心の業として、神が人を創造されたことが記されています。
 「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2:6〜7)、とあります。わたしたちは、神に造られたものです。子どもたちが、何でも作ることが好きなのは、そこに関係しているのかも知れません。
 「土で形づくり」は、子どもたちの遊びのはじまりそのものです。
 「つくる」は、漢字で書くと、「作る」、「造る」、「創る」となります。
 子どもたちが、折り紙や作るものが決まった材料で工作するときは、「作る」でしょう。
 土や木などで、何をつくるかは、まだ造る人の頭の中にあり、それが形となって、実際に、何かがつくられる場合は、「造る」でしょうか。
 創世記1章31節に、
 「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。満足されたのでしょうか。幼稚園での子どもたちの作品にも、何だか分からないものがたくさんあります。しかし、人は、自分の造ったものに満足するところがあります。
 創世記1章は、これらを「混沌、闇、形なく・むなしく、」からの創造(創る)と言っています。
 幼児期の子どもにとっての「つくる」は、この「造る」であって、それは、彼らの「生きる」こと、そのものです。
 一緒にいるまわりの大人は、そのことを理解し、子どもたちと共に生きたいと思います。
 そして、その子どもたちの「造る」を通して、神は、子どもたちを子ども自身の中に創られているのではないでしょうか。
 ですから、幼児期は、子ども一人一人の成長にとって、人としてのかけがえのない時期だと思います。次の児童期には、小学校で勉強が始まりますので、自分たちの今日に夢中になっている幼時期を大切にしてあげたいものです。


 自分は、子どもの時に何を作っただろう。意外に、鮮明に覚えているものです。
 棒を削って作った野球のバット。今のバットのようには造れなかったですが、それでも、そのバットで、球を打って野球をしました。
 紙飛行機。新聞紙や広告の紙で折ったもので、今、子どもたちが作っているものと同じです。紙飛行機は、自分が作ったものが、よく飛んだ時に「極めて良かった」なので、わたしが入ってはならない、子どもたちの領域があります。
 ボール紙で作った箱。これは、たまたまうまくできたので、覚えています。たまたまだったので、もう一度、作りたいと思っても、作れなかったことを覚えています。

〔 理事長 長山 恒夫 〕

 

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聖書のことば

「 わたしは良い羊飼いである 」

                 〔 ヨハネによる福音書10章11節 〕