土・虫
土と虫は幼い子どもたちにとって、自分と深いつながりのある大切なものではないでしょうか。幼稚園では、子どもたちにとって、土は砂場をはじめ庭全体の地面であり、虫はあまり居そうにありませんが、蟻やダンゴ虫など見つけると、喜んで教えてくれます。土と虫は、子どもたちにとって、自然との最初の出会いと言っていいでしょう。自分の幼い頃を思い出しますとこの最初の出会いは何ものにも代えがたいものでした。わたしの幼い頃は、家が井の頭公園に近かったこともあり、沢山の土や虫、加えて、水があり、そこには小魚、えび、特にザリガニなどは恰好な遊び仲間でした。庭を急いで逃げて行く蛇にも時々出会いました。
聖書の創世記2章7節(旧p2)に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。ここを読んで、わたしは、神さまに親しみを感じました。その頃、第三小学校の粘土の置き場が校舎の裏にあり、よくそこに行って一人で粘土をこねて遊んでいたこともあり、「神さまも、土をこねていたんだ」と、聖書の言葉に共感を覚えたのです。
土は不思議なもので、庭の土を掘って、その穴に台所のごみなどを埋めておくといつの間にかそのごみは土になっていました。その庭に、木を植えたり種を蒔いたりすると、育って、花や実を成らせます。庭にいちじくの木がありました。実を、先に蟻に食べられないようにするのが一苦労でした。その庭の土の中に住んでいるモグラやいろいろな虫を知ると、土の中の世界を身近に感じるようになりました。こうして、「神さまが命の息を吹き入れられた」そして、わたしは「生きるものとなった」のです。
ヨブ記1章21節(旧p776)に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」とあります。命を与えられ、生きたものとなるということは、その命はやがて奪われるものであるということです。虫の命は、飼われている籠の中で、あるいは、子どもの手の中で死んでいくことを見せてくれます。わたしの虫かごの中でも、数えきれない虫たちが死んでいきました。そのようにして、わたしは、沢山の命と死を見、経験しました。子どもたちにとって、その死は、時に大変悲しいものであり、時にどうということもない出来事であるでしょう。その一つ一つによって、子どもたちは自分とのかかわりにおける、存在していたものが存在しなくなることを経験します。そのようにして、神さまに造られこの世に存在するものとされた自分をそして他人を理解するようになります。土また小さな虫との出会い、そして草花との関わり、それは、同じように、この自然界に生きるものとされたわたしのそして子どもの命の歩みの一歩なのです。虫や草花をかいしてではなく、土が直接語りかけてくれる土の声に耳を傾けて、命の言葉を聞くことができたらどれほど幸いなことでしょう。
二月は、春がもうそこまで来ているという季節です。子どもたちの遊びは冬の寒さなど問題にしていませんが、それでも二・三月は早春の自然が豊かな時です。土と虫をキーワードにして、春を迎えたいと思います。
〔 理事長 長山 恒夫 〕
聖書のことば
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
〔 コリントの信徒への手紙第二 4章18節 〕