最高のプレゼント


  29年前、私は青森県にある八甲田教会の牧師として赴任しました。その年のクリスマスで、生涯、忘れられない言葉に出会いました。それは堀田飛鳥(ほった あすか)という当時小学五年生だった女の子の言葉です。彼女の両親は教会員で、飛鳥ちゃんはいつも両親と一緒に礼拝に出席していました。クリスマス祝会の席上で私は飛鳥ちゃんに尋ねました。「クリスマスプレゼントは何が欲しいの?」。すると彼女は母親の顔を横目で見て、少し照れ臭そうに、「クリスマスプレゼントは毎年決まってるの。お父さんが帰って来ること!」と答えたのです。


 標高750メートルという八甲田山の中腹に18戸の専業農家があり、にんじん、レタス、トマトといった高冷地野莱を栽培していたのですが、冬になると積雪4〜5メートルの豪雪地帯で農業ができる期間は5月〜11月までの半年間。ですから残りの半年は出稼ぎに行かなければなりませんでした。当時、青森県は日本で最も出稼ぎ労働者の多い県でしたが、経済的困難は今も変わりません。堀田家もその例外ではなく、毎年晩秋から翌年春のゴールデンウィークまで父親は家を空けなければなりませんでした。それでもクリスマスが終わった暮れから年頭にかけての一週間は、どこの家も一時帰省した父親を囲み、家中が笑顔に包まれるのです。


 私は飛鳥ちゃんの言葉に鷲き、何かとても恥ずかしい気持ちにさせられました。それはこの時小学五年生だった彼女の感性の豊かさに対する驚き(感動)であったのと同時に、家族がいるのは当たり前と思い込んでいた自分への恥ずかしさでした。


 考えてみれば、生きているということは決して当たり前のことではありません。生きていること自体、自分自身の中に保持し得ない全くの贈り物であり、私たちは皆生かされている存在なのです。ある人が「生きていること自体はすでに十分にドラマティックなことであり、何か面白いことはないかと刺激の強いことや心を躍らせること、目先の変わったことを次々と求めるのは生きていること自体への感動の無さを物語っているに過ぎません」と言っていますが、本当にその通りだと思います。
 生きていることは、決して当たり前ではなく、十分不思議に見えることで、その不思議さに感動すべきことでもあるのです。自分自身が命を贈られて生かされている事実に気づかされる時、いつもそばにいる家族や友人がとても大切な存在に感じ、最高のプレゼントにさえ思えてきませんか?そしてそのプレゼントの贈り主がいったいどなたなのかを確かめることもできるようになるはずです。


 どうして自分が生まれ、ここにいるのか。そしてわが子が与えられ、日々、この幼稚園に通っているのか。それは全く不思議としか言いようのないことでしょう。だからこそその不思議さに驚き、一日一日を感謝と感動をもって生きること、それが命の造り主であり、贈り主でもある神さまが一番喜んでくださることだと思います。


 そしてもう一つ、忘れてはならない神さまからのプレゼントがあります。神さまの独り子、イエスさまです。このお方を通して、私たちは神さまの愛を知らされました。毎年、一年の終わりにクリスマスを祝う最大の理由は、この世界がこれからどうなるか分からない不安の中にあっても、間違いなく神さまの愛に包まれて新しい年を迎えられる喜びと希望が約束されているからです。決して当たり前でないこの事実をしっかり受けとめて、子どもたちとクリスマスをお祝いしましょう。

 

     「神は、独り子を世にお遣わしになりました。   
     その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」
                          (ヨハネの手紙一4章9節)

 

〔 相愛教会牧師 真壁 巌 〕

 

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聖書のことば

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

                    〔ルカによる福音書1章28節〕