われら互いに相愛すべし

 

 子どもたちが幼稚園で経験する最も大切なことは、友だちとの出会いです。お母さんお父さんに送り出され、先生たちに見守られて、人としての最も大切な出会いを経験します。年少・年中・年長をこの「人としての出会い」ということで見ますと、彼らの豊かな成長を見ることができ、何とも豊かな気持ちにさせられます。

 

 

 「互いに愛し合いましょう。」という言葉が新約聖書ヨハネの手紙一 4章7〜12節(p445)にあります。文語訳の聖書では「われら互いに相(あい)愛すべし」とあり、4月号で園長が書いているように、相愛幼稚園の名前の由来であり、相愛幼稚園の保育の精神を表しています。初代の園長白石トクも「〜ともども神様の愛をうけ、互いに愛しあいつつ〜」と書いています。
 
 聖書の「愛」はギリシャ語の「アガペー」の訳ですが、愛には、自分の好きな人を愛する自分中心な愛と他人(ひと)を中心とする隣人愛があり、イエスが教えた愛(アガペー)は後者の愛です。

 人は自分にそそがれている神の愛、親の愛を受けて歩み出しますが、人との出会いの中で相互の愛を他人を愛する愛を経験します。子どもたちは幼稚園での友だちとの出会いで、この経験を繰り返していきます。食べ物が胃と腸で消化吸収され血となり肉となるように、この経験によって、子どもたちの心と霊(精神と言ってもよいですが、心と霊は人の存在を意味します)は成長します。

 イエスは、この愛(アガペー)を教えています。教えるだけでなく、そのように生きました。そこに十字架の死があります。
 愛についてよく知っている律法の専門家がイエスを試して質問をしたとき、イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と答えています。専門家はさらに質問して「では、わたしの隣人とはだれですか」と問いました。それに対してイエスは「善いサマリア人」の話をされています。追いはぎに襲われた人を助けた人の話ですが、話を終わってイエスは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問い「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言っています。
 「隣人とは誰か」ではなく「隣人になる」が、イエスが教えていることです。この視点から聖書の多くの教えは語られています。子どもたちに伝えたい、子どもたちと共有したい教えです。

 「隣人、あるいは友となる」、聖書がわたしたちに求めていることです。しかし、人は自己中心性から抜け出すことのできない存在です。イエスが求めておられる本当の隣人となる本当の友となることが難しいという現実があります。隣人として、友として、他人と向かい合う、そして本当の隣人となる、友となる。わたしたちの誰もが、子どもでも大人でも、まず、しなければならない大切なことです。相愛幼稚園が子どもたち一人ひとりにとって、そういう出会いの場所であるようにと願います。

 イエスのたとえの一つに「迷い出た羊」という話があります。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。〜もし見つけたら、迷わずにいた九十九匹よりもその一匹のことを喜ぶだろう」という内容で、これが神さまの御心だという話です。
 羊の話ではなく、社会で軽んじられている人についての話で、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」で始まっています。

 

 子どもたち一人ひとりを大切にというのではなく、子どもたちがそういう心を持った一人ひとりに育つようにと願っています。

 

 

 〔 理事長  長山 恒夫 〕

 

 

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