愛されたから愛せるよ

  滋賀県にある止揚学園という知的障害がある子どもたちの施設で施設長をしておられる福井達雨先生が、こんなお話を紹介しています。

 「ある夏の日、子どもたちと雑草を刈っていた時。あまりの暑さに隣で草を刈っていた子どもについ愚痴をこぼしてしまった。『雑草ってイヤな草やなあ。本当に雑草なんてあらへん方が良いのになあ。そしたらこんなシンドイ思いせんでもいいのに。』すると、彼がポツンと『ぼく、そう思わへん』と言った。『なんでや?』と聞くと、『雑草どんどん生える、チェリヤ(止揚学園にいるポニーの名まえ)元気になる、ありがとうやろ』と答えた。

 その言葉を聞いた時、私はドキンとさせられ、二つのことに気づかされた。

 一つは〝雑草がどんどん生えると、何度も草刈りをしなければならないのでシンドイ、自分が損をする、辛い、だから雑草はイヤだ。少しでも楽をしたい。幸せになりたい。相手なんてどうでもいい〟と、自分が一番大切で、自分中心にものを考えていく人間より、〝雑草がどんどん伸びるのは素晴らしい。雑草が伸びてくれるから、チェリヤがそれを食べて元気になる。雑草は自分の命を投げ出してチェリヤの命を守ってくれている。だから雑草に『ありがとう』と言わなければ〟と考える人の方が多くの人を幸せにするのではないかということ。

 もう一つは、雑草も野菜も動物も自分の命を投げ出して人間の命を守ってくれている。命あるものの中で人間が一番優れていると考えているが、私たちは自分の一番大切なものをささげて他者を支え、幸せにしようという方向に進むことがとても下手なのではないかということ。」                 (「負け戦に賭ける」より)

「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤの
ナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」
  

(ルカ2:39-40)

 ナザレという寒村で幼少期を過ごされ、「たくましく育った」少年イエスさまには、それを知る
知恵がありました。では、その知恵はどこから来たのでしょう?
 体のたくましさだけなら、野山を駆け回り、父ヨセフの大工仕事を手伝えば作れたかもしれません。でもそれだけではなく、心のたくましさをも備えていました。それはナザレの会堂で毎週聖書の御言葉を通して神さまの愛を知り、家庭では両親の愛を受けながら弟妹たちを愛し、
自然の恩恵を実感しながら歩まれたからだと思います。

 イエスさまはナザレの自然と家庭の中で、そして会堂で御言葉を聞きながら神さまの愛に
満たされ、身も心もたくましくお育ちになったのでしょう。それが「神の恵みに包まれていた」ということです。


  昨年、幼稚園のお母さまから頂いたクリスマスカードに書かれていたメッセージです。
「疲れた時などつい、『何かいいことないかなー』とひとり言を言ってしまったりするのですが、
子どもが今日も無事に帰って来るなど、当たり前なことが、とても幸せなことだったよなーと思い直したりしています。」
 本当にその通りですね。日常の生活の中で子どもたちを愛し、愛されている自分を発見できることはなんと幸せなことでしょう。友人が作詞した歌です。

 「愛したい 愛したい 自分を忘れて 愛したい
 愛せるよ 愛せるよ 愛されたから 愛せるよ」
                                         (作詞:荒瀬牧彦)

 間もなく卒園してゆく年長・ばら組さんがこの愛を豊かに注がれ、神さまの恵みに包まれますように!

〔 牧師 真壁 巌 〕

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